図書館のすゝめ


大阪府図書館

のブログの記事執筆方針
いつかどこかでこのブログの方針を記したいが、暫定的に考えている事をここに記そうと思う。
できるだけ記事のソース(情報源)については誰もがアクセスできる
ネットで拾える無償の論文や論考を提示したいと考えている。

しかしながらネットでは限りがある為
書物をソースに提示する必要がでてくる。
私はAmazonのリンクを提示するつもりだ。
しかしながら買うのは留まってもらいたい。

その本は図書館で借りられるかもしれないからだ。
私もAmazonを利用する事があるが極力控えている。


書館のすゝめ
今ウェブブラウザとしてGoogle Chromeを利用しているのなら、
その本、図書館にあります。」というアドオンを利用して欲しい。
そうすれば、amazonリンクにある本が図書館にあるかどうかすぐにわかる。


その本、図書館にあります。




仮に図書館に蔵書が無くても他の図書館からの取寄ができるし蔵書を増やすようにアンケートを入れる事もできる。
もしあなたが読もうとしているその本が良書ならば、他の人も読む事ができるだろう。他の人にも有益なのだ。
また、本だけでなく映像や音楽等も借りる事ができる。見聞を広めたり、教養を深めたりすることもできる。
先人からの贈り物なのだ。(悲しいかな私の住む大阪府では二重行政として図書館の統廃合の動きがある)

ぜひ、図書館を活用して欲しい。

ブログを綴るという事について、その意義、副次的な作用、についての覚書

ログを始めた理由
ブログを始めた理由は青木泰樹氏著「経済学とはなんだろうか」「経済学者はなぜ嘘をつくのか」という書物を読み、中野剛志氏に触発され、少しでも我が国の同胞に正しい(少なくとも適切な)経済社会学・経世済民の思想について広く知らしめたいという思いに駆られたからだ。

先にTwitterというものを始めたが、短文ゆえ考えをすぐ吐き出せる利点があるものの、それを後で見返すのには不適であるように思う。下書きや草稿はTwitterで、記事としてはブログで残すというのが当面は良い方法のように考えている。


ログを綴る事について、その副次的な作用
ということでブログを始めたのではあるけれど
浅学かつ遅筆の悪条件に加えて私は「欠陥だらけの完璧主義」というものを背負っており、
記事一つ執筆するのも難産で苦痛の伴う行為なのだ。

認知行動療法によると物事全般に関して

・やる気⇨行動  の因果律ではなく
行動⇨やる気  の因果律だという

はじめに行動ありき」「やる気は後からやってくる」というのだ。

陰鬱と怠惰の罠に陥っているのなら試してみるといい。
私もこの因果律を半信半疑で捉えているが、体験からいうと真実に思う。しばしば失念する為ここに記す

思考とはまことに不思議なもので、頭の中をぐるぐると回っては、次から次へと移り変わっていく。
また培うように育むように深く熟慮する時間と余裕が無かった事もあり精神衛生に負の影響があるように感じた。
有り体に言えば、仕事をする中で「公正とは何か」「価値基準とは何か」「教える事とは何か」「道徳律とは何か」等色々考えさせられる事が多く、悩みにすら変わっていたのだ。

しかし「GDPの恒等式」という簡単な記事を書いた時、頭の中の靄が晴れ、すっきりするのを感じた。
記事を執筆して感じたことだが、自分の考えについて文字にして表現して見返す(自分との対話)には非常に良い様に思う。
自分が今現在何に興味を持っていてどんな疑問・問題意識を持っているかがはっきりわかるからだ。


ログを綴る事について、その意義
冒頭で書いたのは本当の願いではあるけれども、恐らくこのブログを読んでくれる人は少ないかもしれない。
そしてこのブログは社会に対して、何の影響力も持たないだろう。

しかし、我が国では日本経済新聞を筆頭にマクロ経済についてはおかしな記事を書く新聞が非常に多い。(全てと言っても過言ではない)

それらに比べれば幾分かは正しい(少なくとも適正)な記事は浅学の私でも書けるだろう。
多勢に無勢、負け戦でもやらねばならぬ事もあるのだ。
新聞というほどの頻度と質を保つ事は諦めよう。


現実の経済について学びつつ、我が国の知識人や経済学者、知識人に欺かれぬ様に、経世済民の思想をここに記す。
産まれてくる我が子へ、父が贈る日本における経済社会に関する備忘録であり歴史書であり手引書となるように綴ろうと思う。


令和元年五月三十日
産まれてくる我が子を喜びを抱いて待ちわび、
己の無力さと向き合いつつ、父としての決意を胸に、
我が国と我が子の行く末を憂いてここに記す。

GDP恒等式をどう捉えるか?

GDPとは?
GDP (Gross domestic product) とは国内総生産の事である。
国内総生産とは国内で一定期間内に生産されたモノやサービスの付加価値の合計額を示す。

一般に
国内総生産(GDP)≡   民間消費(C)+民間投資(I)+政府支出(G)+(輸出X-輸入M)と表現される。
GDP≡C+I+G+(X-M)


(X-M)を純輸出NXと表し、簡潔に表現すると以下の様になる。
GDP≡C+I+G+NX*  (*NXは純輸出を示す)

GDPの恒等式(簡易型)をどう捉えるか?
GDP≡C+I+G+NX     (NXは外部与件)
この恒等式は必ず事後的に成立する。


辺のGDPを先決する場合
G(政府支出)を増やすと
他の構成要素であるC(民間消費) I(民間投資) NX(純輸出)のいずれか又はいずれも減少する。
金融政策は重要ではあるが、ここでは詳しく論及しない。

ぜ政府支出を増大させると民間消費や民間投資、純輸出減少するのか?
GDPが先決されている為政府支出だけでなく他の構成要素を増やすとその他の構成要素は同額減る構造となっている。
②政府支出の増大は金利の上昇をもたらす(ならば)民間投資を締め出すという理論がある(クラウディングアウト
③(金融政策を併用しなければマンデル=フレミング・モデルにより純輸出が減少する。詳細は省く為、粗雑な説明となるが、財政支出を増やし内需拡大した分だけ、純輸出が減少するので、財政支出の増大による内需創出効果は純輸出の減少によって相殺される説明されている。

④仮に一時期に政府支出を増大させても、その後にそれと同額を増税によって民間部門から徴税したり、財政支出を削減するという緊縮財政政策を用いた場合は理論的にはGDPは不変となる。※1※2※3

(※1政府支出以上の額を増税しても、他の構成要素が同額増大すると仮定するとやはりGDPは不変となる)
(※2もちろん理論的にはという話であって、現実にはGDPは減少する。
(※3デフレ下では実質GDPは見かけ上増加するが、名目値ではゼロ又はマイナスであり、深刻な不況をもたらすのは自明である

何故デフレ下では 実質GDP>名目GDP となるのか?
その理由については当記事の最後にある参考リンクに簡潔な説明がなされている。
必要に応じて各自参照されたし。

再掲
GDP≡C+I+G+NX    (NXは外部与件)
辺から左辺への因果律(GDPの決定式)として捉える場合
右辺(C+I+G+NX)の総和が左辺(GDP)となる。

ここで動かせる変数はG(政府支出)である。
政府支出の増大が民間投資を誘引するのなら(クラウド・イン)又は他の構成要素が一定であるならば政府支出の増大はGDPを増加させる。

<参考リンク>
https://www.bank-daiwa.co.jp/column/articles/2016/2016_18.html
https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/otoiawase/faq/qa14.html
https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/otoiawase/faq/qa1.html


<2019.05.29追記>
MMT (ModernMonetaryTheory) 論者のステファニー・ケルトン女史も
GDPの恒等式、また現在の日本経済について筆者と概ね同様の見解を示しているようだ。

https://twitter.com/StephanieKelton/status/1133361934315741185



[論考]「経済論理の濫用による政策論議の歪みについて ─ 財政政策と国債問題を中心として ─ 」に基づいて現在の日本経済を考える

本日は私が参考にしている経済学者である
青木泰樹氏の論考に基づいて現在の日本経済について考えてみたい。
今回の論考は平成24年に書かれたものでもう6年も前のものであるが、今でも通じる議論であるので再考したい。
経済論理の濫用による政策論議の歪みについて─ 財政政策と国債問題を中心として ─


済議論は何故噛み合わないのか?
❝二十年ちかくに渡って日本経済の長期的低迷という現実に直面しながら未だに経済学者、評論家および官庁エコノミストといった経済の専門家の間で、その原因および解決策に関して意見の一致は見られない。

経済学の門外漢のみならず、このことを不思議に思わない人はいないであろう。何故、経済学という同一の学問的基盤に立脚していながら、結論がかくも異なるのかと。しかし、同一の現象に対して複数の解釈が存在することこそ、経済学の学問的性格を端的に表している。すなわち、経済学は一枚岩的な体系ではなく、経済諸学説の集合体であることを示しているのである。

❝経済論議に参加する者同士が、互いに部分理論しか引っ提げていないにも関わらず、「我こそは経済学の論理にしたがって議論をしているのだ」と言い合っているわけであるから議論がかみ合う筈はない。

互いに異なる土俵で独り相撲を取っているようなものである。こうした経済論議の齟齬を避けるためには、先ず経済学が多様な諸学説の集合体であることを認識し、次に各論者たちの依拠する学説を整理しておく必要がある

注意すべきは、各学説は前提条件を受け容れるならば、真偽の観点から優劣をつけられるものではないことである。
それらは分析対象に応じて、すなわち問題設定ごとに適否の観点から論じられるにすぎない。
例えて言えば、剃刀は髭をあたるには適するが、大木を切り倒すには不向きであるように。❞

(引用終わり)
(太字強調、色彩強調、下線の付与は当ブログ筆者によるもの)


少し長い引用となったが、当該論考の最初で示された経済政策議論の混迷の主因が指摘されている。
  ①経済学は体系だった一つの学問であると考えている。
  ②各論者ほそれぞれ依拠する学説が違う。
  ③上記2点について経済政策議論に参加する人たちは理解できていない。

これは現状のアベノミクスへの評価、財政を巡る問題(財政破綻論、財政再建論)、金融政策と財政政策の効果の是非など
経済について語ると人々の意見の一致を見ない要因の一つである。
私達も経済について論ずる際には唯一解を求めがちではあるが、経済議論に参加する各人の依拠する学説は違うという認識を持つべきではないだろうか?


「デフレの原因」とはなんであろうか?
再び青木泰樹氏の論考を参照しつつ再考してみたい。青木氏は経済学的なデフレの原因・見解を3つに整理している。

(1)需要側の経済学に基づくデフレの原因説
   →「総需要不足
❝いわゆるケインズ経済学や新古典派総合に慣れ親しんだ者にとっては、「デフレ」と非自発的失業の存在する「不況」は同義語であった。かつてデフレの原因は実体経済における総需要不足の貨幣的表現であると誰もが信じていた。「需要不足でモノが売れない状態が継続するから、価格が下がり続ける」とするのが需要側の経済学からの説明である。それゆえデフレを克服するためには総需要を増加させる方策、いわゆる拡張的財政政策をとるべきであると考えられてきた。

(中略)供給側の経済学が勢力を増すにつれ、「デフレ」と「不況」は別の概念であるとの見解が徐々に支配的になったのである。すなわち、供給側の経済学は貨幣の中立性に基づく見解であるため、貨幣現象であるデフレと実物経済における生産水準はそれぞれ独立に決定される論理構造になっている。したがって、デフレは実体経済の規模とは無縁の純粋に貨幣的な現象として捉えられることになる。経済学の主流派の交替によって、いまや「デフレ」、「不況」および「デフレ不況」はそれぞれ別個の経済状況を表す概念となった。❞


(2)供給側に基づくデフレ原因説 

   →「物財に対する相対的な貨幣量の収縮
❝極端な見解の代表は、新古典派経済学の現代版である「新しい古典派」である。その論理において貨幣は完全なるヴェールであって実物的要因に全く影響を及ぼさない。その場合、デフレもインフレも実体経済(産出水準)にとって無関係であるから、経済問題にすらならない。デフレであろうがインフレであろうがどうでもよいのである。❞

(3)ニューケインジアンらのデフレ原因説 
   情報ラグ、情報の不完全性によって起こる「物財に対する相対的な貨幣量の収縮」
❝多少穏当な見解は、マネタリズムおよびニューケインジアンのそれである。両者はともに長期的には貨幣の中立性が実現するとしているが、短期的には情報ラグ、情報の不完全性等によって貨幣が非中立的になる場合を想定している。その場合、貨幣的要因の変動が実物的要因に影響を及ぼす経路が理論上可能になる。いわゆる金融政策が有効となる可能性である。
(引用終わり、一部加筆修正して引用している)

<要約>
  ①需要不足によるデフレ
  ②物財に対する相対的な貨幣量の収縮によるデフレ
   (しかしながら実体経済とは無関係)
  ③情報の不完全性などによる物材に対する相対的な貨幣量の変動によるデフレ
   (短期的には貨幣が非中立である為、金融政策有効)


政政策を経済学者が忌避する理由
経済社会を構成する同質的なミクロ主体が主体的均衡(制約条件付きか否かは別として最も満足している状況)に達している以上、政府が民間経済に介入する明確な理屈は存在しない言うまでもないことであるが、供給側の経済学に立脚する限り、経済は常に均衡状態にあり非自発的失業者はおろか職についていない人は皆無であるから(ミクロ主体は同質であるとの仮定より経済内に失業者と就業者は併存できない)、経済問題自体存在しないのである。供給側の経済学には理論的に不況の存在余地はない。セー法則に立脚している限り、経済に需要不足はあり得ないのである。それが純粋理論の帰結なのである。
(引用終わり)
(太字強調、色彩強調、下線の付与は当ブログ筆者によるもの)

要側の需給ギャップと供給側のGDPギャップ
❝「デフレギャップ」の概念だけは、「需給ギャップ」を示すケインズ経済学の残滓として現代においても生き残っている。しかし、それも風前の灯かもしれない。デフレギャップの代わりに「GDPギャップ」の用語が多用されてきたからである。現在のところ、その用語を使うエコノミストやマスコミ人に混乱が見られるが、本来、GDPギャップはデフレギャップを供給側の経済学で塗り替える概念と言える。すなわち現実GDPを決定するものが総需要であるとするケインズ経済学の論理を否定するならば、GDPギャップは純粋に供給側の問題に帰着されるのである❞
(引用終わり、太字強調は当ブログ筆者によるもの)
況は現実に存在するか? 不況と構造改革論の奇妙な関係
❝供給側の経済学に不況は存在しない。しかし、現実には不況は存在する。経済理論の中で不況や非自発的失業の概念を消し去ることはできても、現実経済からそれらを消し去ることは如何に高名なる経済学者を以てしても不可能である。供給側の論理に基づいて現実の経済問題に対処せざるを得なくなった経済学者のとったひとつの立場が「構造改革論」であった。❞

❝それは現実の不況を「需要不足の状態」と認識するのではなく、「現在の経済状況は均衡(需給一致)しているが、改善の余地のある状態」と再解釈することから始まる。すなわち経済内には制度的に保護された非効率な分野が存在し、そこから効率的な分野へ諸資源(労働や資本)を移動させることによって経済は拡張しうるという見解である。諸規制や制度を改変するという構造改革は不況を供給側の問題と捉え、その解決策を提示するものであった。❞
(引用終わり)
(太字強調、色彩強調、下線の付与は当ブログ筆者によるもの)

フレ派はデフレをどの様に捉えているのか?
❝デフレからインフレに至るまでの間の通貨の再膨張を意味するリフレーションという言葉にちなんで、一般に「リフレ派」と呼ばれている。リフレ派の主張の中心は、「インフレ・ターゲット論」である。すなわち、中央銀行がデフレ脱却のために「目標とするインフレ率(おおよそ2%)」を達成するまでマネーストックを増加させ続ける金融緩和政策である。
その論拠は「フィッシャー方程式」にあり、それは「実質金利=名目金利-期待インフレ率」として示される。インフレ・ターゲット論の理論的前提は、次の三点である。

(1)外生的貨幣供給論に立脚し、中央銀行はベースマネーの操作によりマネーストックをコントロール可能とする。
(2)貨幣の非中立性(貨幣が中立的だと期待インフレ率と名目金利は連動し実質金利を動かすことは不可能となる)。
   しかし、この前提は言明されない(隠されている)。
(3)実質金利と民間投資との間に明確な関係(投資スケデュール)が存在すること。
こうした前提の下、中央銀行のインフレ目標の設定が民間経済人の期待を変化させ、投資増をもたらす経路を想定しているわけである。
●インフレターゲット論の欠点①
 ・中央銀行→民間経済への貨幣の注入経路が欠落している。
 ・実質金利の低下が投資増に結びつく経路を考えているが、
  先の見えない状態である不況期に若干の金利低下が大幅な投資増に結びつくとは考えにくい。
 ・不況期にリスクを取れるのは中長期的観点から経済運営を考えられる政府だけである
(引用終わり)
(太字強調、色彩強調、下線の付与は当ブログ筆者によるもの)

●インフレ・ターゲット論の欠点②
❞インフレ・ターゲット論は、供給側の経済学にマネタリズムの主張を重ね合わせた構造をとっているがゆえに問題が残る。すっきりしない。金融政策に依存するだけで、財政政策の発動に論究できないからである。自らが既にケインズ経済学を捨て去ってしまっているから、財政発動の必要性を言えば論理矛盾に陥ってしまうからである。もちろん、主流派経済学者から放逐される危険性も増す。
ただし、需要側の立場を取り入れ、すなわち拡張的財政政策との合わせ技(ポリシー・ミックス)を使えば利点が発揮される可能性がある。
(引用終わり、太字強調、色彩強調、下線付与は当ブログ筆者によるもの)


金融政策については論が分かれるところではあるが、私は基本的には「紐では押せない」という立場である。特に流動性の罠の下では。

しかしながら量的緩和政策やREIT買い入れ等の資産効果による企業のバランスシート改善に一定程度効果があったと評価している。

また国債の日銀への移し替えが行われたので巷に溢れていた財政破綻論のうち投資家が一斉に日本国債を売り、国債暴落・金利上昇するといったリスクや次世代負担論等は無効となった。

ただ一点付け加えるなら金融政策のみではデフレ脱却には不足していると思われる。



債に対する誤解と正当な解釈 ~国債を貨幣循環で捉える~
日本の国債残高は平成24年度末で700兆円余りと見込まれている。日本のGDPが500兆円弱であるから、世界的に見てもかなりの高水準であると見られている。財務省は国債が「国の借金」であることを喧伝し、その残高の急増による財政悪化に対して警鐘を鳴らしている。経済学者(特に主流派財政学者)、経済評論家、エコノミストおよびジャーナリストの多くも財務省の見解に同調し、国債残高の累増による財政破綻の危険性や次世代負担の問題を声高に叫んでいる。
しかし、十年以上も前から彼等が「日本は財政破綻寸前である」と言っているにもかかわらず、国債は順調に(好調にと言ったほうが適切であるかもしれない)消化され、財政破綻の兆しも見えない。これは明らかに財務省をはじめ主流派経済学者の依拠する論理によって、現実経済を説明することが出来ないことの証左である。

ここでは国債問題に関する誤解を解き、拡張的財政政策の足枷を外すことの必要性を論じる。そのためには、先ず、国債の機能を貨幣循環の図式の中で明らかにしなければならない。貨幣量はストック量であるため、経済学では一般に(供給側および需要側の経済学を問わず)、貨幣量を「フローの局面(貨幣循環)」で扱うことは滅多にない。大抵はストック市場である貨幣市場を想定し(ただし、「新しい古典派」には貨幣は一切登場しない)、そこで民間の貨幣需要と政府による貨幣供給の関係から名目金利が決定されるとする「外生的貨幣供給論」が展開される。信用量を重視するポスト・ケインズ派では、金利が先決され貨幣供給量が民需に柔軟に対応するという「内生的貨幣供給論」の立場がとられる。いずれの見解に立脚するにせよ、「経済内に貨幣量のプールがひとつある」と考えることに変わりはない。
しかし、この見解は現実経済の貨幣現象を分析する際に誤解を生む危険性がある。経済取引には財サービスの取引である「経常取引」と資本貸借である「金融(資本)取引」がある。前者は所得を発生させる取引であるのに対し、後者は単なる資金移動にすぎず所得を生むものではない。経常取引に使用されるカネ(活動貨幣)の量的変動が直接的に物価変動をもたらし金融取引に使用されるカネ(不活動貨幣)のそれが直接的に金融資産価格の変動をもたらすことは言うまでもない。またケインズにならい経常取引に使われるカネを「産業的流通内の貨幣」、金融取引に使われるカネを「金融的流通内の貨幣」とする。伝統的な経済内に貨幣量のプールがひとつあるという見解では、こうした経済内の貨幣流通は無視され、活動貨幣不活動貨幣も区別されることはない。特に、政府による貨幣注入経路を考慮できないことは問題であろう。

筆者は、「経済内に二つの貨幣量のプール」─産業的流通内の貨幣量のプール金融的流通内の貨幣量のプール─を想定し、両者の交渉経路を考察する貨幣論の枠組みが必要であると考え、そのための試論(動態的貨幣論)を提示した。結論を言えば、二つのプール間の貨幣流通は景気状況に依存し特に不況期においては金融的流通内に貨幣が滞留する可能性が大きいことであるもちろん、そうした理論的基盤にまで立ち入らずに、現実的な貨幣流通を認識するだけでも、国債の機能に関する以下の議論は理解されると思われる。
さて、国民経済は政府部門と民間経済から構成され、民間経済には二つの貨幣量のプールがある。活動貨幣量と不活動貨幣量のプールである。貯蓄前者から後者への貨幣流通であり、実物投資のための銀行融資は逆であるこの図式の中に国債を導入すれば、その機能はおのずから明らかとなる。すなわち、国債発行が市中消化される場合、それは民間経済の不活動貨幣を活動貨幣へと変換することを意味する。言い換えれば、民間経済に滞留するカネ(投資的待機資金)を「政府経由」で所得化するカネへと変えることである。通常、その役割を負うのは金融仲介機関による融資である。しかし、先の見えない不況期においては、企業側はリスクをおそれ新規の資金調達に二の足を踏み、他方融資側でも信用リスクの高まりから資金の貸し渋り、貸し剥しが発生する。すなわち、金融的流通内のカネの産業的流通内への流れが堰き止められてしまう。こうした経済状況に際してリスクをとれるのは政府だけである。政府は国債発行で得た資金を政府内に留めるわけではなく、公共事業や一般歳出の経費として「民間経済で使う(活動貨幣量を増やす)」のである。それによって需要(所得)を創出するのである。不況期に政府による積極的な財政政策が望まれる所以である。
国債発行の是非は、国債を発行しなかった場合に比べて、民間経済に悪影響が出るか否かにかかっている。次にそのことを説明しておく。政府が新規に国債を発行したところで、市中消化であれば民間経済内の貨幣量に変化はない。不活動貨幣量は減るが、その分活動貨幣量が増えるからである。国債発行をしなかった場合に比べて、国債が民間経済に蓄積(保有)されるだけである。日本のような世界一の対外純資産を保有する国にとって、市中消化された国債は「政府の借金」であると同時に「民間の金融資産」でもある。国債残高が高水準にあるということは民間経済規模が大きいことを示しているに過ぎない。
国債問題に関する財政破綻論にせよ次世代負担論にせよ、その論拠は国債発行に伴う「長期金利の上昇」および「インフレの高進」による実体経済への悪影響の発生にある。主流派経済学者の立脚する供給側の経済学では、このことは保証されている。何故なら経済は常に完全雇用状態(正確には自然失業率に対応する産出水準)にあり、それゆえ資金市場も逼迫していると仮定しているからである。そこに新規の資金需要が発生すれば必ず金利は上昇する。
しかし、不況により資金需要が低迷し、資金供給がだぶついている状況において新規国債を発行したところで長期金利は上昇しない。またデフレ下にある状況において国債で調達された資金による呼び水的な政府支出の増加は一般物価水準を押し上げるものではない。
過去二十年の歴史はそれを物語っている。バブル期に6~7%あった長期金利は、国債発行が急増したにもかかわらず低下の一途をたどり、現在では1%割れも珍しくはなくなった。同時に、デフレが十数年も続いていることでもそれは明白である。

債問題とデフレ不況の解決策 ~国債の保有者が問題である~
❝国債の機能と役割の重要性が認識されたとしても、一般国民に対して現在ある国債残高の解消策を提示しておく必要がある。
「財政再建は焦眉の急であり、これ以上の国債を増やすことは財政破綻につながる」との財務省の宣伝やマスコミ報道によって国民の多くは将来に対する不安な気持ちを抱えている。それを一掃することが現在できる最大の景気対策だと思われるからである。

しかし、ここでの議論は現在の国債残高の解消策について論ずるもので、今後の歳入歳出構造にまで論及するものではない。先ずもって認識すべきことは、財政破綻とは「借金が返せなくなること」ではなく、「(民間から)追加の借金が出来なくなること」である。通貨発行当局を有する政府が自国通貨建国債をどれほど発行しようと返済は必ずできるのである。政府の信認が揺らいだときにはじめて、誰も政府にカネを貸さなくなる状況に至る。政府および通貨に対する信認はその国の「長期金利の水準」「インフレ率」に反映されるから、それを注視していれば良い。それゆえ、長期金利が底這いを続け、十数年もデフレ状態の日本は財政破綻の危険性はほぼ皆無といってよい。財政規律という言葉も誤解を生んでいる。それは歳入と歳出を一致させるべきだとする財政均衡主義から発している概念である。しかし、その理念は個人の家計に当てはまるものであるとしても、国家の財政運営においては最悪の思想である。個人と国家とを同一視することの危険性がここにある。資本主義経済を景気変動の過程として捉えるならば、財政均衡主義は論理的に即座に破綻する。景気変動と共に歳入は変動するが、義務的経費が大半の歳出はほぼ一定値で推移する。財政均衡主義の立場からすると、不況期には歳入不足から増税をせねばならず、それは需要を減らしスパイラル的に経済を悪化させる。逆に好況期には歳入余剰から減税をせねばならないから、景気は過熱しインフレの高進をもたらすことになる。財政均衡主義より柔軟なる機動的な財政運営が勝る理由である。

さて、国債の解消とは借金の返済、すなわち「償還」のことである。個人は借金を所得から返すしかないが、国家には三通りの返済方法がある。第一に「税収からの返済」であり、次に「借り換えによる返済」であり、最後に「日銀による国債引き受け」もしくは同じことだが「日銀による国債買い切り」である(償還のための借換債を日銀が引き受けるのも、償還する国債を日銀が買い切るのも同じである)。政府は経済状況を見ながら、どの方法を選ぶかを適宜選択できる。
貨幣流通の図式からすると、
①「税収からの返済」は産業的流通内の活動貨幣を金融的流通内の不活動貨幣へと転換することである。いわば、所得化するカネを壺に入れて庭に埋めるようなものである。景気過熱時には良い方法かもしれないが、不況期には最悪な方法である。さらに借金返済のために増税を行うなどは愚の骨頂と言える。
②「借り換えによる返済」は、政府と民間による金融的流通内の貨幣循環を発生させるだけであるから、景気に対して中立的と言える。
③最後に「日銀引き受け」もしくは「日銀による国債買い切り」は、償還資金分の現金を新たに金融的流通内へと注入することを意味するから民間の不活動貨幣量は増加する。増加分がどの程度、産業的流通へと回るかは景気状況に依存する。例えば、2002年から2006年にかけての量的緩和政策に際しては、そのほとんどが民間非金融部門へと渡らず、「マネーが回らない」状況が現出したことは記憶に新しい。
さて、こうした認識に基づき、国債残高の解消策を考察する。これまでの国債論議では既述の悲観論が大半を占めてきたが、近年では楽観論も出てきたことは好ましい。楽観論の代表的見解は、「政府のバランスシートを考慮した純債務の観点からすれば現行の国債残高水準は諸外国と比較して問題はない」とするものである。確かに一理あると思われるが、その論理、いわば「まだ大丈夫だ」という説明だけでは財務省やマスコミに洗脳されてきた一般国民を説得することは難しいと思われる。
われわれの議論の出発点となる基本認識は、現行の「国債残高の水準」を問題視するのではなく、「国債残高の保有者」を問題視することにある。端的にいって、現行の国債問題に関するさまざまな論議はこの視点を欠いている。「仮に700兆円に上る国債残高を全て日銀が保有しているとするなら、何の問題があろうか」を問うのである(現在は「日銀券ルール」があるために、日銀保有分は全体の一割弱である)。
(引用者注:
2018年第4四半期日銀資金循環統計 参考図表 『図表6-2』において日銀の保有する国債は全体の40%超を締めている。)


この場合、
国債は「政府の借金」であり、同時に「日銀の資産」となる。いま政府と日銀を「広義の政府部門」とするなら、この状況においては政府部門内での不活動貨幣の貨幣循環が生ずるだけである。政府の利払い費は日銀へ一時的に入るが、そのほとんどは政府へ返納される。償還費は日銀による新規の借換債発行で何の問題もない。国債残高700兆円は変わらないとしても、それを以て財政破綻や次世代負担といった問題が生ずるだろうか。生ずるわけがない。日銀のバランスシートが拡大するだけで、民間経済には全く悪影響はないのである。
もしも、日銀が全ての国債を保有した場合に、国債問題が解消するとするなら、そうした状況へ至る手段を講じれば、国債問題は最終的に解決するはずである。すなわち、「現行の民間経済に存する国債残高を日銀へと移し替える政策」である。もちろん、全ての国債を移し替える必要はない。国債は民間金融機関にとって重要な資産運用手段であるから、それをすべて取り上げることは愚策であろう。大雑把に言って、現行の国債残高のうち3割程度を20年程度かけて日銀へ移すのが良いのではないだろうか。もちろん、その数字は筆者の主観にすぎない。「国債残高を日銀へ移し替えること」が肝要なのである(具体的手段に関しては「動態的金融政策」にて提示した)。

同時に、一般国民に対して、国債残高は問題なく解消することを丁寧に説明することによって国債問題に対する不安感が払拭されることになる。景気浮揚のための拡張的財政政策の足枷が取れれば、この動態的金融政策の実施と合わせたポリシー・ミックスによってデフレ不況を脱却できるのである。

(引用終わり、太字強調、色彩強調、下線部は当ブログ筆者によるもの)

青木氏の著述は明快であるがゆえに、わざわざ引用するまでもなく論文そのものをコピペしたほうが良いのではないかと思ったが、私自身の経済に対する理解度を確認する為、自分の見解もはっきりさせる為にこの論考を通して再考する事とした。
現時点で私は青木氏の説明や理解が正しいと考えている為に批判的考察ではなく肯定的評価を下している。


〈参考文献〉
経済論理の濫用による政策論議の歪みについて─ 財政政策と国債問題を中心として ─」青木泰樹
http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/resilience/material/pdf/2012_07_09/aoki.pdf
「経済学とはなんだろうか ~現実との対話~」青木泰樹 八千代出版

ナショナリズム・ルネサンス

[参考ブログの紹介]

ナショナリズム・ルネッサンス

sorata31さんが運営されている経済から軍事まで広く扱おうとする野心的なサイトです。
昨今話題となっているMMT*1(Modern Monetary theory)の要約記事などが公開されています。

*1
日本では現代貨幣理論と呼ばれる事もあります。

今後公開される記事にも注目されます。
是非ブログを訪ねて、記事をご覧ください。

ナショナリズム・ルネサンス
https://ameblo.jp/sorata31/